カノン物語

社名の由来は、定かではないが、カノンといえば、パッヘルベルのカノン を思い出す人も多いかも知れないが、

母(広子)によると、創立当時、急成長していた、『キャノン株式会社』にあやかって、少しもじって、父(保太郎)が『カノン』となずけたらしい。

鰻谷(心斎橋)のダイアミ興業(繊維卸業)で出会った、父と母は、大阪教育労働会館(現たかつガーデン)で結婚式を挙げた。

当時、社長秘書をしていた、2歳年上の母に、父は何度もアタックしたらしい。

独立心旺盛な父は、母と協力して、婦人服卸業を創業。

当時は、日本は高度成長期。盆も正月もなく、日本人は、より豊かになろうと誰もが懸命に働いた時代だ。

翌年、37年12月1日、長男(計実 カズミ[筆者])も生まれ、事業はどんどん軌道にのり、昭和38年、有限会社カノン商会を創業した。

当時は、働く女性が急増し、婦人服の需要も大幅に高まった。納品すれば、いくらでも飛ぶように売れたと、後年、父が言っていたのを思い出す。

そして、40年5月18日、次男(英巳 ヒデキ)が生まれる頃には、新らしもの好きの父は、自動車に懲りだした。

ミゼットから始り、歴代のブルーバード、NISSANのバン、フォルクスワーゲン、ローバーと続いた。

時折、高井田の事務所に、デザイナーさんも来るようになり、難波と、東花園にショールームもオープン。

ヨーロッパに、知り合いの社長さん連中と、ファッション業界の視察旅行にも行っていたこの頃が全盛期だったのだろう。

後年は、繊維の街、大阪の婦人服業界も、安い中国、韓国製品に押されて、段々と不景気は厳しさをましていった。

母親は、いち早く、健康食品に目をつけ、婦人服で培ったネットワークを生かして、

東花園のショールームでパーティー形式で、販売するようになった。

紅茶専門店、賃貸住宅と併設したショールームは、私から見ても当時から先端的な試みだった。

この頃から、両親は、社会的な活動もするようになった。

母は、PTAの会長、ライオンズクラブの役員を何年も務めた。

父は、ボーイスカウトの指導者として、私と弟が、現役の隊員でなくなっても、活動を長い間勤めた。

そのおかげもあって、父の告別式には、多くのボーイスカウト関係者が、弔問に来てくださった。

緊張の中、喪主を務めていた私も、懐かしい顔を見てとても安心したのを覚えている。

母は、祖父の言葉を引用して、よく私たちに言っていた。

『動物でも、自分の子供の面倒くらい見る。人間は、身内だけでなく、社会に役に立つこともしないといけない。』

何度も、言われたこの言葉は、私たち兄弟の血肉になっていると思う。おかげで私は家族には迷惑を掛けっぱなしだが。。

父が70歳で食道ガンで亡くなり、やがて、カノン商会(のち、カノンコーポレイション)も念願の創立50年を超えたので、2017年に法人は解散した。

父の看病、残務の整理など、大阪を離れている自分は何の役にも立たず、弟がすべてを引き受けてくれていた。そのことには、今でも感謝している。

(**国税庁の調査によると、会社の生存率は、5年で14.8%、10年で6.3%、20年で0.4%、30年で0.021%。

50年以上続いている企業は1万社あって2社も残らない**)

父が私たちに教えてくれたことは、

『誠実に生きること』

本当に曲がったことが嫌いで、自分たち子供から見ても融通が利かない父だった。

もっと臨機応変に振舞えば、私たちも、もっといい暮らしが出来たかも知れない。(笑)

私が、13歳、弟が10歳の時に、家が火事で全焼した。私たちは、父の会社の2階で寝泊りした。

親戚の家で、お風呂に入れてもらったり、おじさんの家でしばらく、居候したりしたこともあった。

学校に行くと友達が、服や教科書などを分け与えてくれた。

会社はそれこそ、大ピンチだったと思うが、今思うと家族が協力し合い、あの頃が一番、幸せだったのかも知れない。

少なくても私はそれを感じていた。

今思うと、困難を乗り越えようと懸命に生きる父と母の姿勢が、周りの人たちに伝わって、私たちは守られていたんだと思う。

今では、親になった私たちも、その姿勢を見習い、少しでもいいものを次の世代に残して行きたいと思う。

(2018年4月 父の13回忌を迎えて。)

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